かの速水真澄の名言に
「ファンとは、バカなものだな」
というのがある。
ハイハイ速水さんがわからない人はコレ読んでくださいね。
舞台女優としてのマヤに惚れこむあまり公私混同の嵐。
もともとファンからはじまったはずなのに、作中の彼らは愛をはぐくんでいくわけですが。
「ファン」という言葉は極力使わないようにしている。
近頃のご時世で熱狂的なファンに「そんなんでファンなんて名乗らないでよね!」とか言われたわけではもちろんなく、なんか「ファン」という言葉には「作品が好き」というものに「その作品を作っている人も好き」「その人を無条件で好き」というのが乗っかってくる感じがして、あんまり得意な単語ではない。
もともと何か誰かの熱心なファンだったことはたぶんこれまで一度もない。
たとえばアーティストで言えば小学生でバービーボーイズやチャゲ&飛鳥、中学生の頃はJUN SKY WALKERSや小田和正、高野寛などアルバムをアホほど聞き倒して、全曲そらで歌えるほど、ではある。
でもそれはたまたま手元にあったその人らが作ったアルバムが好きだったんであって、そのアルバムをライブで演奏するよ!って言われても正直「ふーん」だった。
その人らがべつのテレビ番組に出るよ!って言われても「はぁ」だったし、要するに出来上がって与えられた作品は大好きだったけど、それを作っている人たちそのものにまで興味は持てないという程度だった。
新譜が出たところで、発売日に買いに行くでもない。予約なんて考え付きもしなかった。たまたまレコード屋で見つけて気に入れば買うかも、くらいのもん。
そして実際買うまで至っても、たいして気に入らないなんてこともあった。
高校くらいでブライアンアダムスを好きになり、このときは意外ときちんと新譜を楽しみにしたり、雑誌で情報を追ったりと少しだけしていた。
それも3,4枚と新譜を手にしていき、あるときガラッと作風が変わり、自分の好みの変遷も手伝ってなんとなく興味が失せてしまった。
当時懸命に聴いていた曲たちはいまでももちろん変わらず好きだが、最近の彼が何をしてるのかなんてまるで知らないし興味もない。
別に嫌いになったわけじゃない。
単にその人の作る作品が好きってだけで、その人自体に興味はないから。
大学生くらいで市村正親を好きになり、彼の舞台は何度か自分でチケットを贖って見に行った。
「この人が好きだから見に行こう」と行動を起こしたのはもしかしてこれきりかもしれない。
対象物として音楽とは違い、舞台は行かないと見られない、から行ったって部分も今思えばあったかも。
音楽はパッケージされて届けられる作品で完結できるけど、演劇は、特に舞台は映画と違って自宅視聴だと正しいクオリティで見られない気がする。
唯一ファンだと言ってよさそうなのは西武ライオンズ。
足しげく球場へ行ったりグッズ買ったりするほどではないけど、視聴環境を整えてたまには現地へ足も運ぶしね。
さてズラズラと書いてきたが、要するにわたしはなにかの熱心なファンだったことが特にない、って話だ。
それがいいとか悪いとかでなく、単に事実としてそうだし、おそらくはこの先もそうだろうと思う。
もちろんそれにはいくつも理由がある。
まず「ファン」というものをざっくり定義する。
そもそもfanatic(熱狂的な)を語源とする言葉だ。
わたしの偏見による「ファン」像とは、対象物に対して惜しみなく愛も金も(可能な範囲で、あるいはそれを越えてすら)注ぎ、対象物を全肯定する。
この全肯定が、わたしには到底無理だ。
たとえばAという作家がいたとする。わたしはこのAが書いた「1」という本をものすごく気に入った。人生観を揺り動かされるほど衝撃を受けた。面白い。凄い。
しかし数年後にAが書いた「2」という本は正直がっかりだった。
「1」の時点でわたしがAそのものを好きになり、Aのその後の発言やらを丁寧に拾い集めて注視して、そうして時間を重ねたうえで「2」を読めばひょっとして受ける印象は違ったかもしれない。
でもわたしが気に入ったのはAではなくあくまで「1」であって、その後「2」を読むまでの間のAに起きたこと、Aが考えていたこと、「2」への伏線になっているであろうこと、などなどはまるで関係がない。
作者関係なく1つの作品として「2」を手に取り、がっかりしただけのことだ。
つまり「1」に感銘を受け、そこからAを好きになり、次回作「2」が発売されたときにそれを無条件に肯定できるのが「ファン」。
それは盲目になっているって意味ではなく、興味を持って追いかけ続けていれば「2」もそれはそれで新しい魅力にあふれた作品であると感じられるだろうと思うから。
もちろん、追いかけ続けている間に少なからず「愛」は育つだろうし。
そして速水さんの冒頭の台詞になるわけだ。
ごはん屋さんにたとえればわかりやすいか。
わたしは「はむぺむ屋」というごはん屋さんが大好き。あすこのから揚げ食ったらもうよそのから揚げ食えないよ、ってくらい好き。
すっかりお店のファンになって週に3日も通ってる。
そこのシェフがまたすげえイケメンで物腰も優しくて話も面白い。
もちろん彼が作るからおいしいんだけどさ、だからってべつにシェフを好きなわけじゃない。
ある日シェフが出してくれたとんかつは正直全然うまくなかった。
なにこれ、衣がべしゃっとして食えたもんじゃない。悪い意味でいままで食ったことないよこんなん。がっかりだよ。金返せってレベル。
でもべつに「はむぺむ屋」を嫌いになるわけでもシェフを嫌いになるわけでもない。
また店には来るだろうし、またから揚げは食うだろう。
そしてあとでべつの熱心で店もシェフのことも大好きな常連客から
「なんかね、シェフは新しい概念のいままでにない料理に挑戦したいと思ってるんだって。その手始めに、いままでカリッサクッっていうのが当たり前だったとんかつという料理をいろいろ試してみたいんだってこないだ言ってたよ」
なんて話を聞く。
なるほどその常連客は、わたしが問答無用でがっかりしたとんかつを「意欲作」と捉えたろうな。
ってなんかかえってわかりにくいか?
世の中にはガチなファンもいれば、もちろんライトなファンもたくさんいる。
どこからをファンと呼ぶのか、ってのは線引き難しい感じはするが、対象物に金を落としていれば、その多寡には関係なくファンと名乗ってもいいのではないかとは思う。
ただし、ある程度継続的に、かつ意図的に。
Aさんの出した作品だから買おう、Aさんのかかわった作品だから見に行こう、という意味で、たまたま単発で買ったってだけじゃファンとは言えない。
当たり前だがファンを持つ側の対象者=ほとんどの場合「表現者」だろうが、彼らはファンに何かを売ることでおまんまを食っている。
このあとの話とも多少リンクするが、ファンというのはお客さんのことだ。
タダ見の冷やかしは客ではないし、向こう側からすればより多く金を落としてくれるお客さんはいいお客さんであることは言うまでもなく当然だ。
愛や夢だけじゃおなかいっぱいにはなれないもんね。
いまひとつわたしが何に対してもファンになりきれない理由が「ヒトは一律でヒト」だと思っていること。
どんなすてきな音楽を奏でる人も、どんな立派な言葉を述べる人も、大前提としてみんな「自分とおんなじ人間であることには変わりない」と思っているから、無条件にその人の言うことやることステキ!大好き!ってなれない。
与えられた作品に感動はするし感銘も受けるが、それを作った「ヒト」に思いを馳せるといきなり視点が変わってしまう。
現実になっちゃう、のだ。
ファンから見ると対象物は「雲の上」。永遠の片思い。アイドルっていい言葉だよね、偶像崇拝。
そこには存在しないがごとく、自分の描く理想のかなたに神々しく坐するのがファンが愛するアイドルで。
そういう人たちのことを「どこまで行っても一律で人間として」見てしまう時点で、わたしはだれのファンにもこの先なれないだろうなぁ、と思う。
だれかのファンになって、愛も金も情熱も捧げて走り回る姿をちょっぴりうらやましく思うことはある。
そこまでのめりこめたら幸せだろうなぁ。
…ん、でも、ちょっと待てよ。
対象者に興味津々で、対象者の一挙手一投足が気になって、対象者の発言はすべて好意的に聞いて、存在自体を全肯定して、全人生を投げうってすべての愛を注ぎ続ける。
いるじゃん、わたしにも。
はむぺむがそれじゃん。
これまでもこれからも誰のファンでもないという発言は訂正します。
わたしははむぺむのファンでした。唯一無二の超大ファンです。
…結局のろけなシメかよって石投げられそう。
うん、だってほら、ファンとはバカなものだからさ!
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ファン関連(ざっくりしすぎて謎な分類)