ふと思い出した懐かしい何冊かをご紹介。未読の方はネタバレ注意。
自己責任でお願いいたします。
「アルジャーノンに花束を」が書かれたのは1959年。長編として書き直されたのは1966年だが、初出からはもう60年近く経っていることになる。
日本でも何度か映画やドラマになっているのでご存知の方も多かろう。
わたしがこの本に触れたのは小学校の図書室だった。
「ネビュラ賞受賞作」の帯になんとなく惹かれて手に取ったものの、ネビュラ賞がなんなのかなんて当然知らなかった。
ちなみにネビュラ賞とはアメリカのSFファンタジー協会かなんかが選ぶ賞のこと。
そう「アルジャーノンに花束を」はSF作品なのだ。
ものすごく雑に作品を説明すると、知的障害のある主人公がとある手術によって一般人を凌駕する知能を手に入れ、それによって変わる自分、周りのあらゆることがらを報告形式で綴る。
最終的には元通りの知能程度まで退行し、序盤と同じような文体でしめくくられる。
読んだ当初の衝撃は大変なものだった。
まだ小学生で語彙も少なかったせいもある。
涙は出るのだが、それが何の涙なのか他人に説明することができない。
悲しいでも嬉しいでもない、あたたかいでも切ないでもない、何にもあてはまらないようなモヤモヤした、不快な、それでいて何かしら人間の真実みたいなものを垣間見たような気持ち。
今になってそのときの感情を強いて言葉にするとすれば、人生においてもっとも最初に「真理に近づいた刹那」だったのかもしれない。
ちなみにアルジャーノンはネズミの名前で、主人公の名前ではない。
すっかりこの作品に魅せられたわたしはその後、ダニエル・キイス作の本を立て続けに手に取った。
貪るように読んだのが「五番目のサリー」。
のちの「24人のビリー・ミリガン」のもとになった、というか、多重人格の女性を主人公にしたお話。
ダニエル・キイス氏がこれを先に書いたのか、あるいはビリー・ミリガンの取材をしている過程でこういった話を書こうと思ったのか、順番は定かではないが、五番目のサリーは完全にフィクション。いわゆる「SF」の枠内と少なくとも当時のわたしは思って読んでいた。
「多重人格」というワードが少なからず流行った頃、というか、背筋の寒くなるようなサイコホラー的要素も大いにあり、壮大な作り話だった。
だがそのあとすぐに発表された「24人のビリー・ミリガン」はノンフィクション作品だった。
非常に有名なのでご存知の方も多いだろうが、実在する「24の人格を持っている」とされるビリーを徹底的に取材して書き上げられた実録ものである。
わたしが手に取ったのは中学生の頃だった。
人格ひとりひとり、しかも外人名、記憶するだけでもだいぶ骨が折れる。簡単な本ではなかった。むしろ平凡な中学生には少々難解だったとも言える。
だけどわたしはハマった。これでもかというくらいハマりまくった。
なぜそんなに面白かったのかもはや当時の気持ちは思い出せないが、理解できるまで何度も何度も読んだ。
それがノンフィクションであるということが、いっそう面白さに拍車をかけていたことは間違いない。
だいぶあとになって出版されたその後の続編も読んだ記憶がある。
ファンタジーにすぎなかった多重人格というものが、ノンフィクションであるというだけで、妙に身近で生々しいものとして自分に迫ってくる感じが興味深かったのかもしれない。
中学生の頃にはこれらの本を夢中で読んでいたが、いつしか本棚の奥へ埋没して行った。
高校生のある日、ふと廊下ですれ違った知らない男子生徒が小脇に「24人のビリー・ミリガン」を抱えていたことがあった。
あああああそれ懐かしい!アホみたいに読んだよ!
メチャクチャ面白いよね!ハマるよね!
思わず本だけをガン見しながらしばらく廊下をついていってしまったことがある。
人通りの少ない階段に差し掛かったあたりでさすがにその男子生徒が不審な気配に(っていうかまんま不審な女に)勘付いて後ろを振り返った瞬間に、「ヤバイ!」と自覚して脱兎のごとく逃げ出した。
って何の話だ。
まあとにかく、そんくらい一時期少女を熱中させるだけの魅力を持った本です、と。
最近読み返していないので印象はだいぶ遠くなっちゃってるけど。
ビリー・ミリガンは実録ものとしての面白さだが、文学作品としては五番目のサリーとアルジャーノンがおススメ。
サリーは娯楽ものとして、そしてアルジャーノンは真理を知る刹那への手がかりに、確実になり得るものです。
人生で一度は読んどいて損はないと思いますぜ。