本日ちょいとあさましいお話。
先日の小田原行は、親族が亡くなったので線香をあげにいくのが主目的だった。
今回亡くなったのは母のいとこにあたる方のご主人。
ご本人とはまるで面識がないのだけど、祖母や父の葬儀の際などに、奥さんにすっごいお世話になっていた。
とても好きなおばさま(といっても母のいとこなので、わたしからみるとすごい遠い親族だが)なので、葬儀は執り行わないと聞いてせめてお顔だけでも、と急遽足を運ぶことになった。
片道3時間以上かけて小田原の家へ行くと、そのおばさまと妹さん、弟さん、娘さんがいて、スーパーで買ってきたという寿司をふるまってもらい、ばくばく食いながらしばしわいわい楽しい時間を過ごした。
母方の親族はあまり仲良しではないが、伊東の一味と、この母のいとこ連中は大好きだ。
めちゃくちゃホーム感漂う。
葬式はしないとはいえ手ぶらで行くわけにもいかず、かといってちゃんと香典を包むとお返しがめんどくさかろうと思い、母とわたしのぶんをまとめて香典袋に突っ込んで無記名で仏様にお供えしてきた。
実際このおばさまには、父の葬儀の際には香典のほかお花を出してもらったり、受付を手伝ってもらったりしてほんとうにお世話になった。
気持ちの問題とはいえ、この程度のお返しじゃ全然足りないくらいだ。
そういう気持ちがあったからこそ、全然遠い親族にもかかわらずわざわざ足を運んだのだ。
それと、母が仲良くしているので「今後とも母をよろしく」と伝えたかった気持ちもあった。
でまあ、その日はそれでおいとまして、楽しい記憶だけが残ったわけだが。
後日、焼き場には母も付き添った。わたしはさすがにその席には行かなかったのだが、このときに母が別に香典を包んで持っていったらしいのだ。
兄貴の名前で。
母「私とたるたるは出してるのに兄が出さないとカッコつかないじゃない?」
たる「兄貴にその話したの?」
母「いや、してない。亡くなったって話はしたけど。時々お金もらってるから、そのなかから兄の名前で私が出した」
わたしはちょっと久しぶりにトサカに来てしまった。
「なんで言わないんだよ?そんなん兄貴が自分から出すって言うのが常識だろ!おかんがもらってるってお金はそういう用途じゃねえだろ?そうやって兄貴ばっかいい顔させて甘やかすのホントに腹が立つよ!」
そんな熱くなるような話でもないんだが、一事が万事と言うか、もうずっと子供の頃から母は兄貴を贔屓する傾向にあった。
いや、たぶん当人贔屓なんて気づいちゃいないだろう。
単に、出来のいい妹(わたし)がなにかデキたことをすると、ボーっとしてる兄貴が不憫になって、母がそれをそっとカバーしてあげる、みたいなのが当たり前になっちゃってるんだろう。
父の入院だって葬式だってみんな、自分で言うのも何だが労力のほとんどはわたしが取った。
兄貴は大阪在住なので、物理的に厳しいのはもちろんわかってる。わたしだって近いとはお世辞にも言いがたいが、それでも関西から来るよりはだいぶマシなので、それは承知の上で。
言い方悪いが、労力を提供できない分金を出せよ、と内心では思ってた。
実際は格別金銭面を負担してくれた印象はない。
今回の親族の件だって、急だったけど母の立場と母のことを思って無理やり都合をつけて参加した。往復の交通費だって、それにかかる時間だって労力だってバカにならない。年金暮らしで金がないってぴーぴー言ってる母のぶんまで、当然金だって出してる。
なのに電話一本でお悔みも満足に述べられないような兄貴の名前できちんと自腹切ってまで香典出して、「兄君はこうやって遠方にもかかわらず心を配ってくれて、ほんとにできた息子さんね」って言われたいのかい。
金は金として、労力を金にまったく換算しない意識にちょっと腹が立ったわけ。
ま、ちっさいころから常に大人にかわいがられる兄貴に対する嫉妬も少なからずある、のは自覚してる。
なんであいつばっかりあんなかわいがられんだ。
わたしのほうがいつだって一生懸命やってて、なんだってできてるのに。
うーん、全開で小物だね我ながら!
それはそれとして、こういう仕事外の労力ってのは正当な対価や評価を得られないことがほとんどの世の中。
以前ちらと触れたベルマークのPTA参加なんかもその際たるもんだね。
地域の活動やら学校関係やら、職場でも直接職務に関連しないたとえば飲み会の幹事とか、親しい間柄でもたとえば旅行の計画とか、そういうなにかに従事する人の「労力」ってのはほとんどの場合勘案されない。
ひどいのになると「好きだからやってるんでしょ」くらい言われる。
アホか。誰かがやらにゃならんからやってるんじゃ!
いやまあ、実際向き不向きで言ったら向いてる人がやってるんだろうとは思うし、なかにはホントに純粋に好きでやってる人もいるだろう。
だけど、その人がほかの受ける一方の人に比べて負ってる労力ってのはあきらかに多いわけで。
それをまったく考えに入れずに平等、公平って思ってる人がしれっと「適材適所でしょ」なんて言った日にゃどういう思考回路なんだってぶん殴りたくなる。
そうなんだけど、そうじゃねえだろ。
べつにその労力に見合った金を払えって話じゃない。労力分なんかで埋め合わせをしてほしいってわけでもない。
ただ、せめてわかってはほしいわけさ。
わかりやすい例で言うと毎回車に乗っけてもらって当たり前みたいな人がいたとしたら、ちょっとそれは常識的に考えて敬遠されちゃうだろ。
車出してもらったらガソリン代だってかかる。運転にかかる労力だってある。高速なんか使えばなおさらだ。
だまってたって、乗っけてもらったほうがガス代やらメシ代持つのが当たり前だろ。
しかももっと言えば、金だけ出して毎回毎回乗っけてもらうばっかりってどうかとも思う。
もちろん運転が単純に好きで苦でないって人もいるだろうし、アシ代出してくれる方が嬉しいって人もいるかもだし、一概には言えないけど。
なんかこう、貧乏くじって言っちゃうのに抵抗はあるんだが、それを引く人ってわりと決まっててさ。
そういう性質の人は、自分で自分をごまかしながら一生貧乏くじを引くようになってる。
それってのは、貧乏くじの存在をそもそも理解しない多くの人たちの手によって、自然とひとっところに回って来ちゃうんだよね。
見えにくい労力でもたしかに労力にはかわりなく、それを負っている人には本来きちんとした対価が支払われるべきで。
対価が不自然なら感謝を。だからって感謝されたいわけでもまったくないんだけど。
せめて、労力を負っていることを、その相手や関係者くらいには理解してほしいな、って思う瞬間が、貧乏くじを引き続けてる人にはあるわけさ。
なんでも金で買えるもんなら、みずから負わないで投げちゃうよ。
労力ってのはときに、金に換算できない種類のものである、こともあるんだぜ。
…てなことを言ってもたぶん母はわかってくれないんだろうなあ。
ま、彼女はそれでいいけどね。