ここ最近、自分でもわかるくらい文章を書くのがのろくなってきた。
もともとそれほど早いほうでもないが、拍車をかけてひどい。
目が見えにくくなったとか、キーボードを打つのが遅くなったとか、そういう物理的な話ではなく、もっと脳的、あるいは感情的な部分に起因するのではないかと自分では思っている。
もう少し年若いころはそれこそさらさらトントンとキーを打って勢いで書けた。
書き上げた後はそれを読み返してご満悦で、いつまででもなんだって書けるんじゃないかと思うくらい順調に筆が滑った。
出来の良し悪しはさておき、やむを得ない事情で中座するとき以外はとどまることなくつっかかることなくとにかく走りきれた。
でも最近はそういかない。
走り切る体力がなくなったのかと疑ってみたがどうもそうでない。
一文を書くたびに思考が際限なく広がって、いちいち立ち止まってしまうようになったためだ。
意識が散漫になっているってのもあるが、もっとも大きな理由はおそらく
「良く言えば視野が広くなった」
「悪く言えば自我が薄くなった」
ことだ。
たとえば今書き途中の「ペットや動物愛護」についての記事。
もともと猫を飼いたいなと思い立ったことから書こうとした記事なんだが、思考をはじめてからもう1週間以上経つ。
だれでもそうだと思うが、通常はまず結論ありきで構想を練る。
ある程度脳内で試行して自分の主張や意見などが固まったら書き出すのだが、その時点でちっともまとまらない。
未決のままでようやく書き出しても一文書くごとに「イヤ、これはこういう視点で考えるとまた違った話になるな」とか「あれ、これはこういうふうに見るとだいぶ意味が変わってくるんじゃないのか?」とかでいちいち突っかかりまくり。
(ここからまとまってない思考の羅列、お見苦しいです)
最初はペットを飼いたい的な話だったはずなのに、ペットを飼うことの是非、そもそもペットとは、人間のエゴ、獣肉を食う、ペットの繁殖とショップやブリーダーの存在、仮にそれらがなくなったらペットに位置付けられている現状のペットたちはどうなるのか、動物保護を実践している人たちの志は尊敬するし同意するけど、金が集まるとわかればそういうふうに動かないとも限らないのが人間で、はたして現在のいろんな保護をうたっているアレコレが全部クリーンで善意のものなのかどうかなんてわかりゃしないとか、繁殖をコントロールしてる時点で善意も悪意もかわりゃしないとか、でももはやそうしないと生きていけないようなのが現在のペットたちでとか、犬猫の譲渡には条件が多く手間がかかるからペットショップに求める人も当然多くて、ペットショップのコたちは簡単に捨てるような人の手に渡ることが多いんだったらある意味そんな不幸な目に遭う前に金を払って救出してあげるほうがいいんじゃないかとか、でもそれがあるから保護猫とかも発生するわけで、でも欲しがる人がいる以上供給は止まらず、供給が止まらないということは多かれ少なかれ不幸なコは生まれてしまうし、ぜんぶいなくなったらそれはそれでまた人間はどうにかしだすだろうしとか、そもそも犬猫に割ける金があるなら食うに困る人間だって地球上にゃ山ほどいるんだ人間愛護のほうが大事じゃないのかとか、それでもたとえば自分が猫を飼ってたと仮定して川でその猫と見知らぬ誰かがおぼれていてどっちかしか助けられないってなったらどっちを助けるかとか、もう何書きたかったんだっけ?
(ここまで)
当該記事はいつか公開できるのでしょうか自分でも不安。
公開時期未定、乞わないご期待。
それはさておき、かように文章を書くのに時間がかかるようになった。
そしてそれは文章だけにとどまらず、しゃべるほうでもだんだんそうなってきている、ことに気づいた。
誰とでも何の話でも盛り上がれるしその場ですぐに仲良くなれる、ことを自負してきたこのわたしが、だれかと話すときの「間」が長くなってきているのだ。
少し話は逸れるが、わたしが基本取っているやり方は「中身のない話で相手をいい気分にさせる」手法。
まずとっかかりとしてどうでもいい自分話をするが、それは呼び水で、あくまで水を向けるのは相手。
「人は自分の話をするのが好き。自分に興味を持ってもらうのが好き」
自分から意気揚々と語る人は呼び水がいらないが、警戒心の強い人も一定数以上いる。
そこで呼び水に使う話題は極端な話なんだっていいのだ。思いついたことや思い出したことをポンポン言葉にして、わたしは語らせてもらったよ、って体になるだけでいい。
「さぁ次はあなたの番ですよ」って流れになれば、多くの人は安心感とともに気持ちよく自分語りをはじめてくれるのだ。
…って書いててちょっと自己嫌悪になってきた。
めちゃくちゃ嫌な奴だなわたし。うん、知ってる。
本題に戻る。
あることないこと立て板に呼び水でわめきちらしてきたわたしが、近頃そのどうでもいい自分語りが下手になっているのだ。
冒頭から間が発生してしまうと、勢いに乗れずテンポが作れず、相手に思考の隙を与えてしまう。
結果、誰とでもなんの話題でも盛り上がれる、という状況が多少作りづらくなってきている、というわけ。
この「文章を書くスピードの低下」および「会話時の間の発生」は、ヒトとして見るとあるいはよいことのなのかもしれないが、わたしにとっては死活問題だ。
最近ちょっと過去ログ掲載が多いのもそういう理由。挟むカット絵に添える文章ですら書くのに以前よりはるかに時間を要する。
むしろ絵だけならすぐに書ける。っていうほどたいした絵じゃないが!
変わるもんだ。
そしておそらくそれらは、わたしが現在接客業に従事していないことと密接に関係している。
それがたとえ定型文だけであっても、わたしはたぶんしゃべってないとダメなのだ。
常に口を動かしてなんか言葉を音として発していないとダメなのだ。
そうすることによって脳内の思考を言葉というかたちにして吐き出す訓練をしていたのだなと、いまさらながらに思い知った次第。
さてどうすべきか。
迷い多きお年頃です。
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社交力関連(←ってどういう区分けよ)