魚をさばく~命を食べるということ

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本日の記事は人によっては不快に感じる表現がございます。食べ物と命に対する多少グロテスクな表現です。自己責任で先にお進みください

 

 

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先日ものすごく久しぶりにアジとイカを丸のまま買ってきた。

包丁にも包丁さばきにもまるで自信はないが、ごくたまに捌きたくなることはある。

まあこの日はたまたま、お勤め先の日替わりがシーフードミックスフライだったので、それを見ていて作りたくなっただけなんだけど。

 

 

うちでは基本、はむぺむは台所に入らない。

入らないというか正しくはわたしが入れない。入れたくない。

自分のフィールドでないところに入ってきてしたり顔であーだこーだ言われるのがイヤなのだ。

わたしよりはるかに几帳面で効率厨。入ったらあれもこれも気になって文句しか言わないの目に見えてるもん。

だったらでんと座って一歩も動かないほうがマシ、ってことで自然とそうなった。

 

 

もうだいぶ昔の話だが、はむぺむが「魚を捌きたい」と所望したことがあった。

リクエストにお応えしてさんまだかあじだかを買ってきたはいいが、いざ包丁を握ると頭を落とした時点で

「…なんかもういいや。満たされた」

とのたまったこともあった。

残りは結局わたしが捌いたわけだが。

 

 

捌くなんてえらそうに言うが、包丁の手入れもロクにしないようなズボラ主婦代表なので、捌き終えた魚の身はボロボロ。

先日捌いたアジもイカも、お世辞にもじょうずに捌けたとは言いがたい出来。

なんならすでに処理済みのパッケージをされたお魚を買って来た方がいい。

 

 

食べ物としてとらえるともちろんそうなんだけど、ごくたまに数年に一度とかのスパンで「魚を捌きたい」と思う時って、ちょっと感覚が異なる。

食べ物としてというより「命を意識したい」って言ったらいいのかな。

 

頭を落として内臓を引っ張り出す。もちろんまな板は血の海だ。

なんと残虐なシーンなのだろうと、ほんとうにいつも思う。

堪えがたい生臭さと不愉快な内蔵の感触。そのどれもが神経に障る。

 

でも、きれいに切り分けられた切り身を買ってきていたらこの感触を知ることはない。

実際わたしはまるで知らずに育った。

そしてそれをとても怖いことだと思っている。

 

時々は、そうして切り分けられ調理されたものを食べておいしいおいしいと言っている状況の「実際」を見なければと、なんかどっかで思うのだ。

だからわたしはときどき、魚を捌きたくなる。

 

 

ただ、夏場は生ゴミの日と相談してやったほうがいいな。

すっさまじい悪臭にだいぶ苦労したよ!

 

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