人は等しくみんないずれ死ぬ。
そんなことはわかっちゃいても、直接は知らないけど大好きだった人の訃報に接すると信じられない気持ちになる。
幼少期から父の影響でプロレスが大好きだった。
団体や選手のあれこれをちゃんと理解して見ていたわけではない。幼稚園~小学校低学年くらいの頃だし、そもそもは楽しみで見ていたわけでもない。
単に父が好きで見ていたために見る機会があった、もっといえば見られるものがそれしかなかったから見ていたにすぎない。
だが幼いながらにプロレスには何か感じるものがあったようだ。
いつの間にかつられてなんとなく見るものから、開始時間にはテレビの前にはりついて父を急かすほど楽しみにするものになっていった。
好きなレスラーは多くいた。ほとんどは外人レスラーで、あとはご多分に漏れずタイガーマスク、長州、藤波。
その中でもアントニオ猪木はわたしにとって、いつだって主人公の人だった。
いろんなレスラーたちがひとしきりプロレスを披露した後で、むき出しの闘魂を赤いタオルでかきまわしながらリングイン。とがった顎を突き出して腰を落として両手を構えるその姿は、滑稽ですらあるはずなのに、いつ見てもすんごい強そうで、すんごいかっこよかった。
ホーガンと、ハンセンと、アンドレと、デカイ外人相手に堂々とメインを張るのはいつだってわれらが猪木。待ってました、真打登場。
彼の見せてくれるプロレスはいつだって本気で、面白くて、強くて、怖かった。
入場曲も大好きだったが、幼いわたしは「イノキ!ボンバイエ!」が「イノキ!ガンバレ!」にしか聞こえず、いつもそう歌っていた。いまも大好きな曲のひとつだ。
小学何年生だったか、同級生くらいの男の子とプロレスの話になった。
その子は「プロレスなんか八百長じゃん」と鼻で笑った。
わたしはその子につかみかからんばかりの剣幕で「八百長じゃない!プロレスラーは本当に強いんだ!プロレスは最強なんだ!」とがなり立てた。
その子が誰だったか、そのあとどうなったのかすら覚えていないが、興奮したわたしの様子にきょとんとしていたことだけは覚えている。
ルールがわかってたわけじゃない。ある程度シナリオがあるものだって想像していなかったわけでもない。
でもそんなん関係あるか。あの迫力、あの凄み、ハリボテの虎にあんなの出せるわけねえだろ。
すごいんだ!こわいんだ!強いんだ!
そして言うまでもなくそれを一番感じさせてくれたのが、アントニオ猪木だった。
その頃のわたしのなかでは、彼は地上最強の人だった。
中学高校と時が過ぎていくうちにわたしはプロレスから遠ざかっていった。
嫌いになったわけではもちろんなかったが、テレビの中継時間が変わったり、おりしも思春期、あれこれ忙しく暮らしていくとなかなか自主的に見ようとしなければ触れ合う機会もなくなる。
プロレスが記憶の彼方に見えなくなっていた高校3年くらいの頃、友人たちと行った遊園地にアントニオ猪木がいた。
がら空きのさびれ気味のうすら寒い遊園地で、お子さんと奥様とおぼしき人と一緒に歩くデカイ男が目を引いた。
遠目に見てもすぐわかる。デカい。なんか怖い。
いっきに幼少期の熱を思い出し、ご家族が乗り物に乗ってひとりになるタイミングをみはからって声をかけた。
「一緒に写真を撮ってください!」
快く応じてくださった。そのときの写真はいまでも宝物だ。
握手をしてもらったが、手のデカさをやたら覚えている。
余談だがその後猪木氏はメディア露出が少し増え、ビンタで気合を入れるという風習が流行した。
わたしが遭遇した数年後だったと記憶している。
会った時にはまだその習慣がなかったため、うらやましいなぁ、ビンタしてもらいたかったなぁとしみじみ思ったものだ。
その後も格闘技のイベント等やら各種メディア、果ては政界にまで進出。
その活躍ぶりは断続的ながらずっと目にしてきた。
最後にテレビでその姿を見かけたのは8月の24時間テレビ。
大病をして闘病中とは知っていたが、すっかり年を取った、でも相変わらず戦い続けてる、ちょっと怖い猪木がそこにはいた。
両国だったけど国技館で、徳光氏がインタビューしていて、なんかじんわり来るものがあった。
彼はこの世を去ったが、猪木イズムは生き続ける。いや、生き続けてほしい。
この道を行けばどうなるものか
迷わず行けよ、行けばわかるさ
燃える闘魂よ、永遠なれ。
元気ですかー!