本日ちょっとアホらしいお話。不勉強で思いつくまま書きなぐった感じです。
エッ、いつもだろって?ハイ、ぐうの音も出ません…。
ふと手に取った雑誌の記事で「御霊はどこに居るのか」という一節を目にした。
記事はさほど興味のない内容だったが、その一文が妙に気にかかり少しそれについて考えた。
2年前に父を亡くしたが、墓参は納骨時と一周忌のほかは行っていない。
墓へ行っても会える気はしないから。
もちろん墓参りをすることで会いに行けている感覚になる人はそうすればいい。
物理的には確かにそこに「その人だった一部分」は存在しているわけだし、そうすることで故人が嬉しいかどうかはさておき、墓参りをしている自分に満足感を覚えるためには必要な場所であり道具であるのかもしれない。
じゃあ御霊はどこにいるのか。
そもそも御霊ってなんだよって話だが、ここでは難しい霊的な話はスルーする。どうせよくわからないし。
その人が住んでいた場所、よく行っていた場所、身に着けていたもの、持っていたもの、どれを見たってその人を偲ぶ材料にはなりえても御霊がいるなんて気はしない。
つか会える気がしない。いや、そりゃ会えないよな。
どっかにそれが「いる」んだとしたら、陳腐な表現で悪いが生きてる人の記憶の中に、わたしたちの心の中にいるんだろう。
それを視覚化というか物質化したものがつまり墓であり、言うまでもなく生きてる人のためのものだ。
だから極端な話、遺族がいなけりゃ墓なんざなくていい。むしろ必要ない、邪魔なだけだ。
子供の頃に誰もが一度は抱くであろう疑問、地上がお墓だらけにならないの?
最近ではマンション型やらで墓の省スペース化もはかられているし(シャレではない)、何十年で墓守不在になれば引墓なんて制度もあるところにはあるそうなので、さしあたって向こう百年や千年程度ではそういった心配はないだろう。
でも、そもそも人類が存続してるかどうかはこの際さておいて、万年億年ってなってくると、そして人口が増え続けるとまではいかずとも横ばいであったと仮定すると、単純に墓のスペースって邪魔になるよね。
よく考えることに(そしてちゃんと調べもせず結論も出ず同じところでぐるぐるしてるアホなのだが)、「地球上の質量・エネルギーって常に一定?」ってことがある。
詳しいことはよくわからんが、一見、生き物が増えると質量が増える気はするけどそのぶん食べたりして燃焼するわけじゃない。
結果的に質量は一定に保たれている、ような気がする。
そういう観点で行くと、超長期的な話なら、いつか遺体や骨はもちろん風化した墓石まで地層の下の方に埋もれる日が来るかもしれないわけで。もちろんそれまで地球があればって話だけど。
恐竜の死骸が石油になったと言われる説に従えば、いずれヒトの骨もそうなってもおかしかないわけで。
そうして考えていくと、墓標も墓石もいらないものだなと改めて思う。
もちろん放置しておくと生きてる人の邪魔になるから、埋めるなり燃やすなり海に散らすなりするべきではあるんだけど。
そして生きてる人間にとっては、故人に対してそんな風に割り切れないほどたくさんの思い出やら愛情やらがあるのは当然で、だからこそ葬式や墓はこの先時代が変わっても存続し続けるんだろうけど。
死後の世界を見たわけじゃないから断言こそできないが、御霊なんてどこにもいない。
生きている人間にこそ受け継がれていくもので、死んだらおしまい。
いつかずっとずっと遠い未来に思いを馳せると、誰のものともわからない膨大な墓の扱いをどうするべきか悩んでいる未来人の姿が思い浮かぶ。
…いや、未来人はそんなことでは悩まないかな。