誰とでもわかりあえるのが理想だが、実際そう簡単なものじゃない。
仮に「この人はわたしをわかってくれてる」と思う人だって、その「わかってる」中身が自分の思ってるそれと完璧一致するなんてことまずありえない。
わかるわけないんだよね、ヒトが何考えてるかなんて。
自分じゃないし、違うんだもん。
性格、性質、経験、思考、積み重ねて見事なほどにそれぞれべつの生き物として進んでるんだから。
まったく同じ道を歩くことなんてこれだけの数ヒトがいながらありえない。
だからわかってほしいと思っちゃダメなんだろうと思う。
これだけ便利な言葉というツールを持っていながらわかりあえないってのは何やら情けない話だが。
いやむしろ、言葉を持ってるからこそなのかもしれないけど。
でも、わかりあえないからといってわかってもらおうとするのをやめてしまうのもなんかちょっと違う気がする。
漫画のカイジでおぼえた好きな言葉。
「通信」とは、「通じたと信じること」。
わかってくれるかどうかなんてわかんないけど、伝えようとしなければ絶対一生伝わらない。
とにかく伝えて、発信して、一方的でもいい、自分の心が相手に届いたと信じること。
そのときわかってもらえなくても、この先のある瞬間に突然わかるときが来るかもしれない。
大事なことはわかってもらうことじゃなくて、種を蒔いておくこと。
そのときわからなかったことが今ならわかる、ってことがわたしにはたくさんある。
もっともその「わかる」中身だって、詳しく解剖すりゃ発信元の本意にどれだけ近いかなんてわかりゃしないけど、ね。
わかってほしい、わかりたい。伝えたい、伝わらない。
これからもずーっとずーっと誤差修正をしながらもっとも正解に近い言葉を探してヒトと関わり続けていくんだろう。
なんとも気長な話だ。
わかりあうことを前提にヒトと関わろうとすると、関わるのがどんどん怖くなる。
考えとか気持ちは確かに変わっていくものだけど、同時に人は忘れていく生き物でもあるから、そのへんは意外とバランスは取れてるのかもしれない。
忘れる度合いにも個人差があるから、その誤差がまた逆に誤解を生むってパターンも多いんだけど。
文章とかで残すのって諸刃だ。
忘れてしまいたいことも残っちゃうから。
もちろん残っていてそれをあとで読むことで思い出して反省したりできるメリットもあるんだけど、一長一短。
蒔いた種に関しては、言っちゃえば「知ったこっちゃない」。
ヒトは自分本位に生きてるもんだし、離れている誰かがどう生きようがまるで関係ない、相手が自分の言葉によってどんな影響を受けようがこっちは痛くも痒くもないわけだし。
でもヒトからもらった意外な言葉で自分が良くも悪くも影響受けていることがあるから、どんな種類のことでも伝えないよりは伝えておいたほうがいいのかな、と感じることは多い。
こっちが時間の流れの中で「変わっていく」「忘れていく」ことを思えば、当然先方もそうなんだろうと思える。
だから自分の発する言葉に関してそれほど神経質になる必要はないんじゃないか。
ってなんか無責任に聞こえるかもしれんが、わたしは結構そう思ってる。
言葉は使い方によってはとても便利だし、それ以上にときに危険なものにもなる、とはよく言われる。
ただ「危険なもの」になるには前提として「受け手」が必要になる。
なんかまわりくどいな。
要するに、言葉を受け取った人がその言葉を「ひどい」と思えば、その瞬間にその言葉には攻撃力が付随する、ってこと。
受け取った人が何とも思わなければそれはただの無害な言葉でしかない。
そもそも受け手がいなければ言葉自体の意味も発生しない。
発せられた段階の「言葉」にはなんの力もないということだ。
わたしは攻撃力の高めな言葉を発することがある。
「キツい」「そんな言い方ないんじゃないか」「そこまでいうことないんじゃないか」と人に思われるかもしれない言葉。
そういうときはたいがい意識してそういう言葉を選んでいる。
少しでも強めの言葉を選んで「印象」をつけなければ、いずれ忘れられて発した言葉は霧散していくことがわかるからだ。
ちょっと乱暴だとは自分でも思うが、言葉の氾濫している大海において相手に何かを伝えたいとなれば、相応のインパクトは必要。
そしてあとは、受け手側の問題だ。
結局最後はなんでもかんでも「コミュニケーション」に行きついてしまうなあ。
ま、それについてもいずれ。