国語力≒コミュニケーション力

 

今でこそおそろしくバカだが、子供のころは出来が良かった、ってのは前にちらっと触れた。

 

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なかでも国語だけは、アホになっていったあとでも、高校までは間違いなく得意だった。

ただし古文は苦手。現代文特化型。

わけて得意だったのは、読解力を問われる問題。

それだけ限定だとしたらどんな難関大学でも受かれる自信があるくらいには得意だった。

 

過去形で書いているのにはわけがある。

 

読解力を問われる問題ってのはつまり

 

「するとA氏は僕に『そんなくだらないことをしている暇があったら、空き缶でも拾い集めていたほうがよほど建設的じゃないかね』と言った。

 

①僕はA氏をきっと睨めつけ、右拳をぎゅっと握った。」

 

下線部①について、僕の心境に近いものを選びなさい

1・嬉しくて踊りだしたい気持ち

2・情けなくて悔しい気持ち

3・言っている意味が分からなくてきょとんとした気持ち

4・A氏への愛が溢れて止まらない気持ち

 

みたいなののこと。

選択肢がちょっとアレなのはさておき。

 

「国語が得意だった」頃にはまったく迷うこともなく正解へたどりついていた。

むしろこんなの間違う人いるの?くらいの傲慢さで「読み解けている」自分に満足もしていたろう。

 

ところが、大人になって様々過ぎる他人と交流し、読書量も増えていくと、はたしてそれは本当に正解なのかと疑問が頭をもたげてくる。

こんな切り取った文章じゃ僕とA氏の関係性なんて想像できっこない。

すっごい尊敬してるかもしれないし、無条件で大好きかもしれない。

どうでもいい人なのかもしれないし、ぶち殺したいほど憎んでるかもしれない。

 

もちろんだいたいの問題はそれらを推察できる前後の文章が載っているのだが、しょせん推察に過ぎない。

僕がA氏がどう生きてどんな状態でそこに存在し、あるいはそれを書いてる作者が何を思って何を伝えようとしてるのか、言っちゃえばわかりようがない。

もっと言えば知ったこっちゃないのだ。

 

書いた文章から受ける印象は十人十色でいい。おのおの勝手な解釈でかまわない。

どうせ本当の正解なんざ書いた本人にしかわからない。

 

なのになぜ、そんな学習をするのか。

 

ある程度の「ひな形」に沿って、人の気持ちを推察することで人間関係を円滑にやっていく、ために学ぶんじゃないかと、今となっては思えるのだ。

 

多くの人は悔しい時に拳を握りしめ、唇をぎゅっとかみしめる。

嬉しい時には声が弾み、足取りも軽くなる。

もちろん例外もいるだろうが、多数を占める人間の感情の動きを知れば、実際の場面で対応できる選択肢も増える。

 

つまりわたしは、国語力が高かったのではなく、コミュニケーション能力が高かったのだ。

人を見る力、もっと言えば忖度力が高かった、わけだ。

その人がどんな言葉を発し、どんな言葉を欲しているか、想像して、想定して、大多数の人にとって正解と思われるものを選ぶ。

国語の問題の選択肢も、実際の会話のセレクトも、おんなじだ。

 

 

この「大多数」に悲しいほどに含まれない夫はむぺむと暮らして20数年。

常に斜め上の返しに慣れてしまったわたしはもはや、大多数の人の正解がわからなくなってしまった。

その事実を認識すると、②わたしはキーボードを叩きながらにやりと笑った。

 

下線部②のわたしの気持ちに近いものを選びなさい

 

1・うれしい

2・たのしい

3・面白い

4・しあわせ

 

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