母が亡くなりました(後)

 

www.hampemtarutaru.com

 

 

母を語るにあたり、宗教は欠かせない。

 

祖母がその宗教に入ったのがいつ頃なのかは判然としないが、母の幼い頃、あるいは若い頃だったろうと推測される。

祖母自体は見る限りけして熱心というわけでもなく、女手一つで4人の子供を育てる過程で寄りかかれる程度の存在だったように思える。

そして母以外の兄弟3人も熱心とはまったく言えない。

母一人、その宗教となにかがマッチしたのだろう。

「自分の道」と決めてひたすらに邁進してきた。

 

父とは宗教で出会ったようだが、父もまた全然熱心ではなかった。

父にとって必要だったのは神や仏の寄る辺ではなく、孤独を癒す仲間や居場所、だったのだろう。

家族というかたちでそれを得た父にとっては、宗教は優先度の低いものにはっきりとなっていた。

というか、母や自分を取り巻く環境を維持するために「付き合い」でやっていた、という感じが幼いわたしから見ていてもわかった。

そしてそんな父は母から見ると多少じれったい存在であったようだ。

 

母の薫陶をたっぷり受けて育ったわたしは、母のコピーのごとく宗教にのめりこんだ。

のめりこんだという表現は正しくないかもしれない。自分の意思で選んだわけではないのだから。

とにかく刷り込まれ、バカがつく素直さでわたしはそれを信じ、それのために生まれてきたと信じ、お祈りも活動も積極的に活発に行った。

自分の中の将来まで定まっていた。宗教関連の学校へ進み、宗教関連の男性と結婚して子供をもうけ、地域のリーダーとなって宗教組織を盛り上げていく。

 

そんなわたしの成長を母は誰より嬉しく誇らしく思っていたろう。

実際幼い頃は出来が良かったし、高校生くらいまでは宗教に関しては申し分ない熱心さだった。

 

だが宗教関連学校の受験に失敗したあたりから雲行きが怪しくなる。

「一生懸命勉強した」実感はまるでなかったが、「一生懸命祈った」ことは胸を張って言えた。それでも落ちた。

とはいえそんなことで信仰が揺らぐはずはない。それも多くの世界を見よという運命で人生における試練なのだ。

とかく宗教においてはプラス思考のご都合主義がデフォルトなので、わたしはそう思っていたが。

 

進学先の大学で旦那と出会った。

彼にわたしの思想も思考も完膚なきまでに叩きのめされ、わたしは目が覚めた。

生涯不退転。ずっと誓っていたことだった。

目覚めたくないと思っていただけだったのかもしれなかった。

 

 

それから、母との関係は微妙なものになった。

 

 

良好ではあるが、複雑だったと言える。

母からしたら手塩にかけて育ちあがった「同志」が突然心変わりして離れて行ったのだ。

裏切者、と詰りたい気持ちもわからないでもなかった。

わたしはわたしが選んだ道を行っただけだが、後ろめたい気持ちがないわけはなかった。

どちらかが強硬な態度を取るわけではなく、したがって表立って対立する理由もなかったので関係が途切れることはなかったが、どこか気まずさは常にあった。

 

母に孫を与えてあげられなかったのもわたしの後ろめたさに拍車をかけた。

子供が好きで、満足な教育を受けられていたら保育士になりたかったのだ、とよく語っていた。子供に囲まれて見せる笑顔はいつもほんとうに幸せそうだった。

そんな母を、あたりまえに享受できるべき孫に会わせてあげられなかったことはわたしのなかで悔やまれる事項だった。


 

宗教組織自体もさまざまな変遷を経て変わっていったが、母とわたしの間でそれらについて語ることはほとんどなかった。

わたしが離れる決心をしたあたりではまだ父が存命で、彼にとって宗教はそれほど重い事項ではなかったため、それについて家族でそれほど深く語り合ったことはなかった。

当然母はいろいろ考えたろうし、思うところもあったろう。

それでも母はわたしを手放し、わたしも母に何か語るでもなく離れていった。

 

 

ごくまれにそれについて語ることはあったが、深入りせずに引くのは母の方だった。

そんなときに感じていたのは、母も「その道」について迷いや疑いが皆無だったわけではなかったろうということ。

母はそれでも、もたげた疑念を振り払うように語気を強める。それは自分に言い聞かせているようでもあった。

 

もういまさらあとには引けないのだと。

 

そうして母はついに生涯不退転で走りきった。

その忠烈ぶりは、もちろん忠烈という一点だけにおいてだが、娘のわたしから見ても実に誇らしいし尊敬する。

 

そしてもしも旦那と出会わなかったら、わたしは母と同じような人生を生きたろうと思える。

 

素直で、頑固で、忠実で、情に厚く、思い込みが激しく、バカが持つ独特のパワーがある。

 

良い悪いでなく、わたしは母によく似ている、と歳を重ねるたびに思い知るのだ。

 

 

母が亡くなることを予想していなかったわけではないが、亡くなった後のことを話し合うことができていなかった。

できていなかったというより、あえて避けていた。

そうしなければならないことはわかっていたが、兄と過ごした長い時間の中では、話題に上げることすら憚られた。

 

実際亡くなるとそこからは怒涛の急流だ。

父の時に経験はしていたが、今回は母という傘はない。その母が死んだのだ。

兄とわたしですべてを決めて進めていかねばならない。

 

死亡宣告から間もなく、看護師が書類とファイルを持って現れた。

まずは遺体の搬送先を決めねばならない。

母は生前、葬儀について家族葬でいい、というような話をときどきわたしにしていたが、それは兄には語っていなかったようだ。

母の中でも迷いがあり、決めかねていたことでもあったのだろう。

 

母は宗教にすべてをささげて生きてきたと言っても過言ではないため、当然それに則って送るべきではあった。

ただ、母の基準は常に「人に迷惑をかけたくない」だった。

この場合の人にはわたしと兄も含まれる。

母は自分が誰かの負担になることを何よりもいやがっていた。

それと宗教との板挟みで、父の葬儀が済んでから、あるいは親族の葬儀に出た際など折に触れては「私のときは身内だけでひっそりこじんまりでいいからね」という言い方をしていた。

 

相談もできていない。式の形すら決めていない。

だがもうすぐに病院は出ねばならない。悩み迷い選ぶ時間などない。

喪主の意向に従う、とまず表明し、それからふたりで父のときと同じ葬儀場に決めた。

 

一時間足らずで霊柩車が来た。母の遺体と一緒に乗り込む。

病院の地下へ男性看護師と担当医師が見送りに来てくれた。

泣きじゃくりながら礼を言った。

看護師はしきりに「力を落とさないで」「心のケアもしっかりしてください」と優しい声をかけてくれたが、医者のほうは憮然とした表情を崩さなかった。

「まあひとつ言えるとすれば」

ちらと顔を見上げると医者は目線を動かさずに続けた。

「定期的な検査が大事だと言うことです」

 

この人は生きてる人間にしか興味がないんだな。

けして悪い意味ではなく、それが医者という立場のプロなりのわたしへの労りの言葉だということが伝わった。

なんかちょっと、おかしくて、泣きながら少し笑った。

 

葬儀場に遺体を安置。

話し合いの結果通夜は行わず葬儀のみ、火葬場との兼ね合いで12月5日と決まった。

通夜は行わないが、4日は家族だけで朝まで線香をあげ続ける。

 

翌3日は葬儀場との商談。

親族や知人に連絡をし、受付なども頼み、並行して兄がいるうちにやっておかねばならない各種手続きなども多くあり忙殺された。

母の携帯と自分の携帯の二刀流で、葬儀が済むまでずっと電話が鳴っていた感じだった。

 

気づけば立派な祭壇になった。旦那の会社からもたくさんお花をいただいたのだ。

それだけではなく社長自ら葬儀に行くと申し出をいただき思わず声が出た。謹んで辞退した。

父の時にもほんとうによくしてもらった。感謝してもしきれない。

 

夜遅く義姉が到着。ひとりで母宅へ引き揚げた。

やるべきことはたくさんあるのに、夜遅くまでボーっと過ごしていた。

 

12月4日。

 

葬儀は母の信仰していた宗教の方式に則るため、自宅の本尊を祭壇に祀らねばならない。

葬儀後は引き継がず宗教組織へ返却予定のため、巻く際に変に触って傷めてしまうのも怖い。

よく子供のころ「火事になったらご本尊だけは抱いて逃げろ」と母に言われていたため、わたしのなかにも少なからず畏怖がある。地域の同じ宗教のかたにお願いした。

 

11時ごろ、巻いてもらったご本尊とともにタクシーで葬儀場へ。兄夫婦はすでに到着していた。

もうこれで、明日の葬儀が終わるまで葬儀場に居続けることになる。

 

13時に湯灌の儀。

父の時にも執り行ったが、体を清めて一張羅を着て納棺するというもの。

身内とFさん、親族近くの宗教組織の方一名とで見守った。

洗髪と化粧が念入りに行われた。洗髪は直接させてもらった。

病院でついた痛々しい痣もきれいに隠してもらい、生前ついぞしたことのないような丁寧な化粧が施され、Fさんがしきりに

「豪華なエステでいいわねえ、きれいよ」

と言っていて、なんだかほっこりした気持ちになった。

 

母自体はきれいと褒められて喜ぶ人ではないし、それをもちろんFさんも知っているけど、彼女のその発言はとても自然で、それに対して母が照れ笑いをしながら

「何言ってんの、バカバカしい」

って答える姿がありありと想像できた。

ほんとに、いいお友達だったんだな。

 

 

通夜を行わないので、葬儀に来られない方が続々と顔を見に来てくださった。

夜までずっと葬儀場の中を歩き回って誰かと話して電話して、だった気がする。

正直よく覚えていない。とにかくなんか忙しかった。

 

 

 

夕方ごろ事件発生。

 

葬儀場に預けた本尊を、担当の方が祀ろうとした際、提げる紐が切れて本尊が落下。折れ目がついてしまったとのこと。

深刻な表情で葬儀場の担当スタッフ、上司、さらにえらそうな人まで揃って兄とわたしに報告にやってきた。

 

あー、うん、古いもんねぇ、そりゃ切れるよね。

とわたしは思ったが、兄は意外なほど厳しい表情で悩んでいる。

「コレ、報告した方がいいのかな」

 

あー、うん、黙ってりゃわかんないんじゃない、って一瞬思ったけど。

 

葬儀終了後返却予定の本尊は、お返しした後どういう処分になるのか想像の域を出ないが、我々兄妹は宗教継続の意思はない。返却の際にトラブルになるのはたしかに避けたい事態だった。

 

悩んだ挙句宗教組織の偉い人に連絡。夜に様子を見に来てくれることになった。

それきっかけで宗教組織と葬儀場との間で問題になったりしたらやだな、とも思ったが、夜駆けつけてくれた幹部の方と相談して、大事ないのでこのまま決行ということで話がまとまった。とりあえずよかった。

 

夜旦那がわたしの喪服一式などを持って車で式場へ到着。

何日も会えていなかったので顔を見てほっとした。彼がいるといないとでは安心感が全然違う。

子供のころからある市内の高級中華料理屋へ行き二人で夕飯。束の間幸せな日常だった。

 

葬儀場へ戻り、そのまま朝まで母のそばで過ごした。

 

 

12月5日、葬儀。

 

たくさんのお花と電報もいただき、親族も、母と交流のあった方々も駆けつけてくれた。

思った以上にしっかりした華やかなお式になった。

 

父の時に組織の人に導師役をやってもらった際の挨拶のグダグダさがとてもイヤだった印象があったので、導師は地域の親交のある方にお願いしていた。

挨拶はFさんがしてくれた。Fさんのお話はほんとうにあたたかく、嬉しかった。

 

花を棺に入れるときに、母の持っていたぬいぐるみを入れたいと事前に話したのだが、ぬいぐるみは火葬の関係でダメだと回答を受けていた。

 

このウサギ。

www.hampemtarutaru.com

 

仕方なく思っていたら、旦那が「写真を撮って入れてあげれば」と言ってくれ、コンビニでプリントアウトして棺の中に入れた。ウサギは我が家でかわいがってあげることにしよう。

 

わたしはほぼ泣いていたので、あまり細部まで覚えていない。

でも、いい葬儀になったと思う。

 

火葬場へ移動、焼いてる間は来てくれた親族たちと談笑。

骨を拾って葬儀場へ帰還してみんなで食事。

 

葬儀で悩むのはこの食事の数。

多すぎても困るが足りないのはみっともなさすぎる。

結婚式と違って数の見通しが立ちづらいので注文が難しいが、全員分プラス父と母の分の影膳でピッタリ、今回はとてもうまくおさまった。

 

全員の見送りを終えて葬儀場を出たのは18時を回っていた。

母の骨と遺影も一緒に、旦那が取ってくれていた宿泊先へ。

疲れていたのかどうかもわからなかったが、久しぶりに旦那と過ごせてとにかくほっとした。

 

翌6日金曜と7日土曜で最低限やるべきことを済ませ、あとは通いで済ませた。

12月中には各種手続きも母宅の引き揚げもどうにか終わり、1月に納骨も済んだ。

 

葬儀と入院手術、引き揚げ等でかなりお金がかかっていた。兄夫婦が一時負担してくれていたので、とにかく母の残したあれこれをかき集めてそれに充てることがわたしの主にやらねばならないことだった。

それがあらかた済んだのはつい先日。やっと肩の荷が下りた感じだ。

 

もういまはすっかり日常だ。

ただ、毎日朝夕届いていたラインが届くことはもうない。

時々実家へ行かなくちゃと思うこともない。そこへ行ってももう母はいないのだ。

そう考えるといまでも涙は出てくる。

それでも、忘れている時間が増えて行っているのも事実だ。

時間だけが、優しくも残酷に人の心を癒す。

 

つい先日、ふいに旦那が

「もうお母さんいなくても大丈夫?」

と訊いてきた。

 

意外だったがそれを聞いてわたしは涙が溢れそうになった。

そんな自分にビックリもした。

 

もうわたしには父も母もいない。

時が経てばみんなそうなる。生き物である以上、順番にいなくなっていく。

そんなことはわかりすぎるくらいわかっていることだった。

泣き暮らすほど悲しいわけじゃない。

ただ人の孤独を、生きるということを、死ぬということを、ときどき強く意識させる。

 

それはなんだか、不思議な実感で。

わたしはこれからも変わらず生きていく。

ときどき父や母のことを思い出し、笑って、泣いて、でもなにごともなかったように時間が重なって。

そうしていつかは、わたしもいなくなるのだ。

 

 

 

www.hampemtarutaru.com

 

【スポンサーリンク】