母が亡くなりました1

12月2日に母が亡くなった。83歳だった。

 

雑事に忙殺され気づけば年の瀬も近いので、取り急ぎの現状報告。

少しずつだが平穏な暮らしと元気な自分を取り戻してきている。

暮れのご挨拶はまた別にできるといいなとは思っているが、念のため言ってはおく。

体に気を付けて、よいお年を。

 

 

以下自分用メモ。

年内に書き切るつもりだったが書いてみたらものすっごい長くなりそうなので何回かに分けて記録予定。

楽しい読み物ではないのでそういう耐性の低い方は読むのをお控えください。

 

***

 

最初の電話は11月17日、日曜だった。

普段のやり取りは朝晩の生存確認LINEのみ。ことに日曜に電話を寄越すことはめったにない。どうしても困っている時や相談したいことがある時だけだ。

 

その電話で母は、吐き気がひどく気持ち悪くてものが食べられないのだと語った。

ちょうどその前の週、わたし自身も食べ物であたったらしく同じような症状だったため、軽く答えた。

「とりあえず明日病院行ってよ。1日2日食べなくっても死にゃしないからさ」

 

翌18日、病院にかかった母は吐き気止めの薬をもらってきたと昼間の電話で話した。

急に食べるとよくないと言われたから、お粥でもゆっくりちょっとずつ食べるよ、と。

 

同じ日の夜21時過ぎに母から電話。

こんな時間にどうしたの?と慌てて出ると、「間違えちゃった、ごめんね」と切られた。

なーんだもう、ビックリしたな。

でも、今思えばこの時母は苦しかったのかもしれなかった。少なくともそんな時間にわたしに間違い電話を寄越すくらいには、何かが母に起きていたと言えるだろう。

 

その小さな小さな違和感にわたしは気づくことができなかった。

 

19日昼過ぎ、様子はどうかと電話をすると、一応ちょっとだけお粥と銘菓ひよこを食べた、でも相変わらず気持ち悪い。今日はこのまま様子を見ると。

翌20日また昼過ぎに電話。やはりあまり食べられず、翌日もう一回病院へ行って検査をしてもらう、とのことでその日は電話を終えた。

 

21日。

新しく得た短期の倉庫バイトも5日目、だいぶ慣れて楽しくなってきた。

仕事のあと駅前へ所用で出かけ、おいしいオムライスを食べて満腹で帰宅した14時過ぎ、母から着信があった。

検査結果が出たのかな。折り返すが出ない。すでに帰宅済みかと自宅へかけても出ない。

 

ほどなく母から電話。高齢者の一人暮らしなので大事をとって検査のために入院をするとのこと。そのときは母の地元の友人Fさんが付き添ってくれていた。

「入院手続きがあるから家族じゃないとダメなんだって。悪いけど明日来てくれる?」

仕事の予定だったので連絡を入れてお休みをもらい、各種手続きのために翌日朝一で母の住む街へ行くことにした。

 

が、それからわずか1時間足らずで、今度は検査入院している病院から直接わたしに電話がかかってきた。

 

「検査の過程で心筋梗塞が判明しました。緊急カテーテルを行いますので、ご家族の方はすぐいらしてください」

 

全身の血の気が引く音がした。

心筋梗塞?何そのパワーワード。殺したって死にそうもないあの母が、内臓系はすこぶる丈夫なあの母が、そんなヤバい単語と縁があるなんて、あり得ない。

 

「す、すぐ行きます」

 

落ち着け。ほんの1時間前に元気に電話で話したばかりじゃないか。

旦那と兄に連絡を入れとりあえず電車を乗り継いで母の街へ急いだ。

 

病院の最寄駅へ着いたのは19時頃。

タクシーがまったくおらず狼狽して走り回っていると、Fさんが来てくれていた。彼女の車で病院へ急ぐ。

 

集中治療室なので本来面会はできないのだが入れてもらえた。会えるのは嬉しいが、それはつまり状態が良くないことも意味していた。

 

だが病床の母は思いの外元気だった。

意識もハッキリしていて普通すぎるくらい普通に会話もできた。

管まみれで横たわってこそいたが、今すぐどうこうなる様子にはとても見えなかった。

 

「こんな色々つけられちゃって痛いったらありゃしない」

みたいなことを痛みに顔を歪めつつも笑いながら母は話した。

なんだ、意外と元気じゃん。

とにかく頑張ってよ、待ってるから、みたいなことを話してすぐに退室。Fさんとはここでいったんお別れして引き取ってもらった。

 

ほどなく医師との面談。

ここで語られたことは、一瞬安堵したわたしを不安にさせるに充分だった。

 

消化器の不調で入院するための検査過程で心電図の異常が見つかり、すぐに循環器に回され心筋梗塞が発見されたこと。

高齢者の心筋梗塞は胸の痛みを伴わないことがあり、母の場合吐き気がそのサインだったと推測される。そうだとすれば5日も前であること。

心筋梗塞の治療は発症から6時間程度がリミットで、それを過ぎると詰まってしまった血管が元通り稼働するのは難しいこと。

心臓の動きをサポートする器具と再び血管が詰まらないように血液をサラサラにする薬を使いたいが、消化器の不調を訴えての入院だったため異常があるかどうかの確認が取れてからでないとそれらを使用できないこと。

急性心不全または肺炎のような症状が見られ、なんといっても高齢なことから依然危険な状態であること。

カテーテルのために造影剤を入れた影響で腎臓に大きな負担がかかると予想され、おそらく透析は免れないこと。

もともと体重が重く足が悪いことも考えると、仮に退院が叶っても現在の住宅での元通りの暮らしは非常に難しいこと。

 

とにかくも一命を取り留めた形ではあったが、一気に「その後の不安」がのしかかってきた。

命があったのは何よりよかった。意識もはっきりしてるし会話だってできた。

でももう歩けないかもしれない。今住んでるところへ帰ることもできないかも。年齢も高い。どこまで回復できるだろう。

 

父の時に味わった苦しさのすべてが思い返された。

歩けなくなり、喋れなくなり、食べれなくなり、ただわたしたち家族のために弱っていくだけの状態で半年生きた父。

それを毎日見舞った母に、また同じような思いをさせるのか。

 

本人の意識ははっきりしているとはいえ引き続き予断を許さない状況だと言うので、一晩院内に留まれないか交渉したが認められず。

母が入院時に持っていた荷物と着ていた服を無造作に突っ込んだビニール袋を2つ渡され、とにかく電話はいつでも取れるようにしておいてください、と病院を追い出された。

 

病院から出るとちょうどバスが来ていた。運転手が好意で乗りますかと停めてくれたので、行き先も確認せず飛び乗る。

分かれ道で母の家と反対方向へ曲がったため慌てて次の停留所で下車。母の家まで歩けば1時間くらいかかりそうだったが、タクシーを呼ぶ気にもならず、両手にゴミ袋を提げてなかば呆然と夜道を歩いた。

 

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