コントロールとカスタマイズ

 

たとえば年若い頃、門限のあるコって時々いた。

わたしはといえば至極放任されて育ったため、その感覚がすごく不思議だった。

夕方6時までに帰ってきなさい、と家から申し渡され、べつに不満がある風もなくそれを守っているコもいたし、文句たらたらでしぶしぶ従っているコもいた。

 

オトナになってからも、そういう話はたびたび耳にする機会があった。

いわく彼氏がうるさいから何時までに帰らなきゃ、子供が小さいから夜出るのは難しい。

前者はたいてい不平不満のついでにそのルールを聞かされ、後者は話している当人も自然と「予定があるのよね」くらいのテンションで話していた。

 

聞く方にとっては事象としては同じなのに、話す側のスタンスに天地ほどの違いがある。

 

時は流れわたしも結婚し、子供こそもうけられなかったものの一家庭として暗黙のルールみたいなものはぼんやり形作られていった。

とはいってもはっきり言葉にするルールはほとんどないと言っていい。唯一わたしのほうから酒癖の悪いはむぺむに対し「死ぬな殺すなできれば失くすな」の最低限三箇条を設けているくらいだ。

 

 

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きまりごとこそないが、わたしはなんとなく夜ひとりで出かけるのはイヤだし、殿方とふたりきりで必要以上に長時間一緒にいるのはイヤだ。

はむぺむに何か言われたことはいっさいないが、わたしのなかで彼に言えない事項は作りたくないし、ほんの少しの綻びも発生させるようなことはしたくない。

あくまで「わたしが」イヤなのだ。

 

いっぽうではむぺむのほうは自由自在に生きている。

女の子のいる店にも行くし朝帰りもしばしばだ(まあだいたい正体ないくらいベロベロなんだが。外で寝たりしててたまに回収に行く)。

 

しかしそれらは正直それほど気にはならない。先の三箇条だけ守ってくれていればむしろのびのび生きてくれて構わない。

そして彼の方は彼の方で、たぶん彼のルールがある。

暴力はふるわない。よその女性に心を移さない。わたしに定期的に言葉で愛と感謝を伝える。

互いが互いに強制したことはないが、それぞれが持っているルールによってうちの夫婦は非常に円満だ。

 

 

このルールってのは実に微妙なものだ。

「誰によって」定められたかによって意味合いが変わってくるし、押し付けられるきまりごとには多くの人間が反発を感じる。

冒頭の門限の話なんかはその最たるもんで、文句を言っているコはつまりとても正常に成長していると言える。

 

粛々と従っているコには2種類いて、なんも考えずに与えられるルールを受け容れられるタイプと、求められる環境を理解して納得して従うタイプ。

この2タイプは似ているようでまったく異なる。

ちょっと極端な物言いになるが、前者は「コントロールされている」、後者は「カスタマイズできている」。

くどいようだが第三者から見た条件はまったく一緒。

 

家庭でも仕事でも、とかく自分以外の誰かと関係を築かねばならない時、このコントロールとカスタマイズというのは非常に重要だ。

もうちょっと正確に言うと、コントロールとカスタマイズの「バランス」が重要なのだ。

 

しかしこのバランス比率に黄金比はない。

AさんとBさんがいたとして、それぞれの性質によって50/50でも100/0でも成り立つのが人間だからだ。

ただしそれが成り立つのはあくまで双方が「コントロールされている」「カスタマイズできている」ことを理解していることが前提。

 

多くの場合「コントロールされている」側には自覚がない。

なにかのきっかけでその事実に気づくと、そのすべてが反発の対象となり、いずれ爆発する。

自分ばっかり制限されて我慢させられて、と思うからだ。

気づく前もそうだったのに、事象としては全く変わっていないのに、ただ気づいてしまっただけで破綻してしまう。

夫婦の離婚理由なんかでもっとも多く見受けられるパターンだ。

 

コントロールとカスタマイズのバランスは、畢竟相手のことをどれだけ理解しているかになってくる。

たとえばコントロールをするのが好きな人と付き合うなら、コントローラーを相手に渡した「風」にして付き合えばいい。

人付き合いの際のもっとも理想的なイメージは飛行機の複座や教習車。

操縦桿は2個あって、普段はコントロール丸投げで生きてていいけど、不測の事態やいざという時にはいつでも急ブレーキ踏めるし急旋回できる。

 

どっちがコントロールしてるように見えるかが重要なんじゃない、一緒に進む道が互いのビジョンに則ってコントロールできているか否か、こそが重要なんじゃなかろうか。

どっちがキャプテンだっていい。

ハイハイ言ってりゃキャプテンがご機嫌なら言ってりゃいい。

昭和な亭主関白な感じのご夫婦で、奥様が暴君なご主人の横でハイハイソウデスネって菩薩のような顔で相槌打ってたりするのをたまに見かけるが、うまいことコントロール&カスタマイズできてるんだなって感心する。

もちろん喧嘩がいけないわけじゃない。があがあ言い合ってそれでもうまくやっていけるなら、それもひとつのカスタマイズだ。

 

ヒトがヒトとともにヒトでありながら生きていくためには、自分を手放してはいけないし、相手にも自分を手放させてはならない。

 

そしてヒトは変化していく生き物だ。

都度コントロールとカスタマイズは重要になる。

 

そういうのがめんどくさいから人と関わらない、結婚もしないって人が増えているのも事実だけど、どのみち死ぬまで人生やっていくうえでそれらを全部遮断するのは現状ではまだまだ不可能だ。

まったくひとりきりで生きていけりゃそりゃ楽ちんだが、自分でないだれかが与えてくれる何かは、ひとりきりでは絶対に得られないもので。

だいたいそもそも「自分」ってもんが、ひとりきりで形成できるわけがない。生きてすらいけない。

そう考えると人類ってのは、いやさあらゆる生き物すべてが単体ではまったく存在できないものなんだと思い知るよ。

 

生きていくのは大変だけど、生きているのはすばらしい。

自身も自身を取り巻く環境もじょうずにコントロールとカスタマイズを繰り返しながら、楽しい日々が送れたら、それに越したことはないよね。

 

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