わたしはアホです。かなりアホです。
のっけから何言ってるんだって感じですが、べつに自虐でも自嘲でもましてや自慢でもありません。単に客観的事実からアホなのです。
もうちょっと好意的に言うと、楽観的、楽天家。
能天気とも言う。
いちおうこう見えても普通の人ですから、人並みに悩んだり苦しんだり悲しんだりします。
いっちょまえに世を儚んだりすることさえあります。
でも基本的にアホなので、そういう負の感情が長続きしません。
すごく悲しいことや苦しいことがあって、涙が止まらず気持ちも上がらず、な日々が延々と続いて、自他ともに認める鬱状態に陥ったこともありました。
いまじゃ信じられませんが、ほんとに指一本動かすのさえしんどいような時期もあり。
でもそんな時があったのだから、世の中の精神的病について理解が深いかと言うとさにあらず。
てめえがそういう状況だったことも忘れて、病は気から!元気があればなんでもできる!*1ってしれっと言ったりもします。
だってアホだから。
忘れちゃうんだよね、痛かったことも、苦しかったことも。
ふとそういう悲しさや情けなさを思い出して歯噛みをするような時があっても、次の瞬間にはその悔しがってる自分の姿が妙に面白くなっちゃってたりする。
シリアスな自分がおかしくなっちゃって謎の踊りを踊ってたりします(いやオカシイのはわたしだなコレ)。
こうやって書くと、アホって人生最強な気がします。
事実自分を最強だと思うし。
たいしたタフネス、この図太さはたいしたもんだと。
でも実は、このアホゆえのタフさって同時にものすっごいダメ要素なんだよね。
何がダメかっていうと、努力をしない。
いや、そんなの単に当人の努力不足なのだからやればいいだけ、なのだけど、その理由として能天気が深くかかわってくる。
たとえば、なにか絶対に勝たねばならない戦いに満を持して挑むとする。
一般と引き比べてどうかはわからないけど、自分的にはせいいっぱいやった。これ以上ないくらい準備して努力した。
にもかかわらず、負けたとしよう。
悔しい、悲しい、情けない。
こうした気持ちを持つのは、普通の人もアホも一緒。
だけどアホは、この気持ちを巧みに方向転換させちゃうことができる。
「わたしはできることめいっぱいやった」
「負けはしたけどいい戦いだった、充実していた」
「きっとこの負けから得られることは多い」
「負けたことで人間的な成長を遂げられた」
いわゆるポジティブ思考ってやつ。負け犬思考とも言う。
あきらかに使いどころを間違ってる気はするんだが、こうして悔しさや情けなさを昇華してしまえる。
昇華しちゃえると、どうなるか。
次こそは勝ってやる!ってならないんだよね。
陳腐な表現でスマンが、その悔しさや情けなさをバネにしてさらに牙を研ぐからこそ人間ってのは成長するわけで。
アホはバネの部分を勝手に衝撃吸収しちゃうから、次のステップにそもそも進めない。
結果、アホはいつまでもアホのままというわけ。
「負けず嫌いの努力家で、いい意味で能天気」
ってのが最強だと理屈では分かるんだが、なかなか両立しろったって厳しい話だ。
負けず嫌いは悔しさを忘れることなんてできないだろうし、努力家は限界を越えて自分を追い詰める。精神的負荷は想像に難くない。
その想像を絶する精神的負荷をどうにかする一番手っ取り早い方法は痛みや苦しみを「忘れる」ことで、そもそも相容れない性質のもの同士ということがわかる。
もちろん次のリベンジマッチで成功体験を上書きできればそれに越したことはないが、勝てる保証なんてない。負けたらさらに傷口に塩を塗り込む羽目になりかねない。
いや、この時点でもう「やる前から負ける事考えるバカいるかよ!」*2なんだけどさ。
いつまでアホでもいられない。
なんとなく生きていたら人生なんてゾッとするほどあっという間だ。
やりたいこと、やりたくないけどやらねばならんこと、やったほうがいいこと、まだまだまだまだ山積み。
いまさら人の痛みをわかる繊細さなんていらないけど、負の感情を上手に残すすべはどうにか身に着けたほうがいいんだろうな。
アホはアホなりに、いろいろ考えて日々を過ごしておるわけです。
少なくともこうして自己分析が出来ている間は、まだまだのびしろがあるんだ!と自分で勝手に思っています。
…ってその考え方がまんま能天気だよなー。アホだ。