先にお断りしておくが、あくまでそもそもの性質やら人間性の話であって、努力や考察の上に経験を重ねれば人はそれによって非凡な人の到達する域に届くことはできる、こともある。
ただ、非凡な人ってのは確かにいるんだよね。
もうなんかそもそもちょっとオカシイっていうか、どっか突き抜けちゃってる
っていうか。言ってみりゃ変人。変な人。変態。
凡人というといかにも能のない印象になっちゃうけど、いわゆる一般的な水準を満たした一般的な思考及び行動のできる普通の人、をここでは凡人と呼ぶ。
わたしはもう、究極の凡人。
ものすごいその他大勢的な生き物。思考も行動も発言も普通。際立って見るべきところもない。
こうして文章を書いていても、しばしば自分は「ホント凡人だな」と思い知らされる。
自分の意見と世間の流れと他人がどう見るか、どう感じるかをブレンドして書けば自然とバランスのいいまとまったものが書き上がる。
だけどそれは同時に目立った特徴のない、どこにでもある味つけの料理に過ぎないものだ。
他人の耳目を集めるような異形のものは、凡人の手からはまずもって生み出されないことを毎度痛感している。
異形のものがいいって話でもないし、うらやましいわけでもないけど、そういうものを生み出せる人ってのはもうそもそも人間としてあきらかに自分と構造が異なって見える。
そういう人を、良くも悪くも「非凡」と呼ぶんだろうと思う。
たとえばうちには非凡な生き物が一匹いる。はむぺむがそれだ。
手前味噌でもなんでもなく、彼は明らかになにかがおかしい。いわゆる一般水準とあらゆるものが大きく異なっている。
普通の人が普通にやっていることが、彼にかかるとまったく別のものに変質してしまう。
感覚の面でも他人とは異なるため、おそらくは日常生活においても多くの相違点への調整に相当苦労していると思われる。
いわゆる天才というのとは少しニュアンスが異なる。
なにかに突出した才能ではなく、人間として根底の部分がおかしいっていうのかな。
たとえば野菜サラダを出されて、普通の人は
「おいしそう」
「どんな野菜を使ってるのかな」
「これはどこ産の野菜なのかな」
「これにあの魚や肉を乗せたらおいしそう」
みたいな感想を持つわけじゃない。
非凡な人ってのは同じ野菜サラダを見て
「この野菜を栽培する土壌は土地や気象によってどのくらい異なるのか」
「収穫に使う機械の仕組みはどうなっているのか、その進歩はどうなっているのか」
「地球上の食糧自給率は100年後にはどうなっているのか」
「その頃人類は宇宙に行っているのか、宇宙で食物を自給するとしたら」
とか
「野菜を食えないことでいじめにあう子供がいる」
「人は食べられないものを無理に食べられるようにすべきか否か」
「異なった価値観を近づけることが人類にとってはたして幸福なのか」
「あるいは離れていった価値観のせいで人類は総人口を減らしてやがて滅亡するのか」
とか
(*あくまでわたしの想像です。たぶん実際はもっとはるかに飛躍して流転してわけわかんない話になります)
もうどこから来てどこへ行くの?みたいな発想をします。
意識してそういう思考をしようとしてるわけじゃなくて、デフォルトなんだよね。
それはもう頭がいいとか知識があるとかいうそういう問題じゃなくて、「脳内の情報棚が凡人とまったく違うつくりになっている」感じがするんだよ。
普通の人ってのは、見たもの聞いたものに対して、対象物に関連する情報をしまってある脳内情報棚を開く。
それと隣接している棚の引き出しを順番に開けて中を探る、みたいなのが普通の順序の思考。
でも非凡な思考回路の人はおそらくその棚が全部常時開けっ放しなんだろね。
で、どの棚からでも自在に引っ張り出してくる。
だから反応速度もメチャクチャ速い。瞬発力と言っていいかも。
あまりにアホみたいな話で、しかも下ネタで恐縮なんだが。
先日とある飲み屋ではむぺむがなんの脈絡もなく、突然
「ウ〇コもれそうなんですけどどうしたらいいですか」
と真顔でマスターのKさんに振ったところ、間髪入れず
「投げればいいんじゃない」
と回答が返ってきた。
間に挟まれたわたしはあまりのキャッチボールにぽかんとバカ面を晒すしかなかった。
当然わたしみたいな普通の人は、はむぺむの発言に対して
「何唐突にバカなこと言ってんの」
みたいな普通のリアクションしかできないし、それ以外の反応が出来る気がしない。
Kさんはそれを受けてしれっと「投げればいいんじゃない」。
もうね、神対応だよ。
言い出すほうも言い出すほうだけど、そんな対応Kさんにしかできないよ。
…ものすごいバカバカしい話になっちゃったけど、つまりわたしの感じる凡非凡ってのはその程度の話。
Kさん以外にもはむぺむの周りには何人かの非凡=ちょっとオカシイ、人がちらほらいて。
はむぺむで慣れているのでそういう人たちと付き合うこと自体は苦ではなくむしろ楽しいけども、時々ふと凡人の自分を驚くほど思い知らされる。
そして、非凡な人となんぼ長く連れ添ったからと言って、自分も非凡になるわけではけしてないんだな、としみじみ思うわけです。
よく自分のこと「わたしって変わってるから」「よく変人って言われるんだよね」みたいな自己主張をする人は、たいてい凡人。
ほんとうに変な人は、自分のことを微塵もヘンだと思ってません。
って理屈に則るとわたしも変人ってことになるけど、わたしは本当に悲しいほどに凡人です。
むしろこの場合は、喜ぶべきことなのかも。
わたしは多分この先もずっと凡人なんだろうな。
非凡な人に囲まれて、それでも凡人は凡人らしく前向きに息を続けていくわけです。