どうやら運動会シーズンのようであちこちから運動会の音楽やら応援合戦が聞こえてくる。
親御さんたちは熾烈な席取り合戦を経て子供たちのがんばるさまを記録する、ほほえましいイベントだ。
あれ、でもそういえば運動会って、あんまり思い出がないな。
幼稚園から小学校低学年くらいまではなんとなくがんばってた記憶はある。
母はお弁当を作ってくれて、父は使い慣れないでかいカメラを構えてたイメージ。
でも3年生くらいからは、親が来た記憶はおろか自分が参加した記憶すらロクにない。
病弱ちゃんだったので休んでしまったのも何回かあったのかも。
体が弱かったのか心が弱かったのか今となっては定かではないが、運動神経もいい方ではなかったし、運動会はそれほど心躍るイベントではなかったな。
不思議だが運動会当日の記憶はほとんどないわりに、練習はずいぶん記憶に残っている。
帆を背負ってするリレーの練習やら大嫌いな組体操、応援合戦各種に土着の盆踊りみたいなの。
曲も振りも、いろんなことを鮮明に覚えてる。
なのに当日の記憶はまるでない。
中学校へ上がるとなおさら記憶がない。もう練習の記憶すらない。もしかして運動会自体なかったのかな。
あまりに記憶がないので確認するすべすらない。
ところが高校へ上がると突然記憶が鮮明になる。
わたしの通っていた高校では「運動会」はなく、代わりに「陸上競技大会」と「球技大会」があった(現在どうなっているかはわからない)。
特に球技大会は2日間開催でお祭り騒ぎで盛り上がる。
運動神経が悪くて競技自体の結果がパッとしなくても、よその試合を応援しているだけで楽しいのだ。
わずか数年でここまで記憶に差があるのは、その数年が理由というだけではなさそう。
というのも「運動会」というのはいわゆるかけっこ以外は学校によって実にさまざまだろうが、基本的に「勝ち負け」ではなく「努力の成果を披露する場」。
努力の過程は必要なんだろうし、身内にとっては楽しく嬉しいものかもしれないが、赤の他人が見ておもしろがれるものではない。
いっぽう「球技大会」となるとモロに勝ち負けが主眼だ。もっというと勝ち負けにしか意味がない。
そしてだからこそ、あれほど面白かったし夢中になれたし、これほど記憶に残っているのだろう。
もちろん競技自体がルールを知っていたり、面白いものであったことも理由ではあろうけどね。
運動部などを経験してきた人は当たり前に知っているだろう「負けを知ることに意味がある」みたいな心境。
けして負け惜しみではなく、負けから学ぶことは実に多い。
というより該当競技のうち負けを知らない人・人々はそれこそ年に1人・1チームのみで、あとはみんな多かれ少なかれ敗者の気持ちを味わっているわけで。
負けを知ることは言うまでもなく大事なのだ。
そしてそのときの痛みや悔しさを正しく次のステップへの燃料にできた人はどんどん強くなる。
話がだいぶそれちゃったが。
勝ち負けにはこだわらない運動会、がことしも各地で開催され、親御さんたちの心にはいろんな思い出が刻まれるだろうが。
肝心の子供たちは、そこから何を学んでいるのかな…などと思った秋の昼下がり。
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