男女区別主義である。
格別女性を卑下したり蔑視するものではないが、女性と男性は平等ではない。
いや、平等ではないってのは語弊がある。同じではない、だな。
同じであるわけがないのだ。そもそもまるで別の構造をしとるわけだから。
身体の構造は言うまでもない。
人生というモノをおおかたの雛形にあてはめるとすればそこには高い確率で結婚出産育児が含まれる。
結婚育児は男性にも可能だが、どうがんばったって出産だけは女性にしかできない。
これだけ女性の社会進出が叫ばれさまざまな科学技術が発達したにもかかわらず、男性にも出産ができるようにしよう!という声が聞かれないのは個人的にはなんだか不思議なんだが。
精神構造のほうも、かなり異なるといえる。極端なたとえ話をしよう。
道端である男女が捨て猫を見つけた。まだ小さい。人が通りがかるような道でもない。放っておいたら確実に飢え死にするだろう。
女性の方はもう「かわいい」と「かわいそう」で心がいっぱいになってしまう。
考えるべきことは山ほどあるはずなのに、そんなの全部すっとばして感情だけが先走る。
いい悪いではなく、思考と感情の回路が直結しているのだからしょうがない。女は子宮でモノを考えるなんてヒドイ言い草もあるがあながち間違ってもいない。
そういうつくりなのだ。
対して男性はというと、かわいいかわいそうがないわけではない。
が、思考の優先順位としては決してそれは高いところにこない。
この猫を放置したらどうなるか。連れて帰ったらどうなるか。育てる環境、それにかかる費用、それによってもたらされるメリットデメリット。
そういった一連のことを順を追って思考に組み込む。
かわいいかわいそうはそこに加点される程度の要素でしかない。
仮にこの男女が「連れて帰って、うちで飼おう」という同じ結論に達したとして、過程にこれだけの差がある。
もちろん極端な例なので、みんながみんなあてはまるわけはない。
個人によって思考の順列と感情の抱き方はさまざまだ。
ただ方向性として、女性は感情重視、男性は理論重視であるとは一般的にも広く認知されている事実だ。
それがゆえ男性には社会性がある、女性には社会性がないと断じて差し支えないだろう。
感情でモノを言ってたら社会では生きて行けない。
理不尽と嘘つきが当たり前に闊歩する厳しく荒んだ群雄割拠の世間はもともと性質的に女性には向かない場所なのだ。
とはいえ、さまざまな訓練と鍛錬をすることで女性も多く社会進出を果たした。
社会の方も、それを受け入れる形を作ろうと試行錯誤を重ねてきた。
たいへん結構なことだ。もはや男女区別を意識する感覚は古いのではないかと思えるほどである。
ただ、依然意識の差はある。どうでもしがみついて年金もらうようになるまで食いつないでいかねばならない男性と、うっかり身ごもったらお嫁にいっちゃえという選択肢が許される女性と同じ意識でいられるはずはない。
女性からは非難の声が聞こえそうだがそれは察していただくしかない。
男性は男として生まれた以上、よほどの例外を除き死ぬまで自力で泳ぐことが約束されちゃってるのだ。ヒトの船に乗っちゃえという選択肢が許されないからな。
「男はつらいよ」という映画のタイトルに反発を感じていた頃もあったが、いまはそれがしみじみとよくわかる。
といったことをふまえて、差別意識的なハナシをしたかったのだが。
書いているうちに余計なことに脱線していっちゃって目指した結論にたどり着けないことがしばしば。
これも女の性質ってとこですな。
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