きのうの記事でスーパー店員だった頃の話があって、それを自分で読み返していたら懐かしくなった。
というわけできょうはちょっとだけ関連した何年か前に書いたものを載せておく。
ところで「ドリンクバー」について、成り立ちを調べたところ1992年ごろのガストが先駆だそうで。
そうだよね、子供のころの記憶ではレストランで頼む飲み物は贅沢品だったような気がするもん。
そもそもは忙しい時間におかわりコーヒーを注ぎに行くのが大変だったアルバイトが、客席にデカンタやポットを置いて勝手にやってくれ!としたのがはじまりだったらしい*1。
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珍しく夫婦で出かけたファミレスでドリンクバーとケーキなどを注文。
ドリンクバーから戻ったはむぺむの手にはスープが。
いやそれ、どう考えてもドリンクバーには含まれないだろ。
確かに並んで置かれていてわかりにくい。
が、気づいてしまったのでレジ精算時にその旨申し出ると、店員さんは笑顔で 「ああ、一緒に置いてあるからよく間違われるんですよね、いいですよ。わざわざおっしゃっていただいてありがとうございます」
なるほど、仮にわたしが店員側だったとしても同じ言葉で同じ対応をしただろう。
お礼とお詫びを言ってお店をあとにした。
でもなんか、釈然としない。
わたしはべつに善良であろうとなんか思っちゃいねえし、正義感バリバリのまっすぐちゃんでもあり得ない。
そもそも基本だれかのためや社会のために進んでなにかしようとかいうタイプでもない。
てめえの得になることならしらばっくれちゃうことだって過去にはたぶん結構あったし、めんどくさい、忘れる、などなどまあいろんな要素もありかなり適当に生きてる。
なのだけど、どう言ったらいいかな、すごく不公平な感じがして。
たとえばさきほどの話ひとつとっても、まるきり「気づかない」人もごまんといるわけで。
さらに「気づいてるけどしらばっくれる人」もいれば、「気づいてるけど『気づいてない人が大丈夫なんだからわざわざ損することもねえだろ』と思ってる」人もいる。
すごく微妙な差だと思うんだけど、「鈍感バカ」も「ズルい人」も結果だけ見れば同じ損害をだれかに与えることになる。
わたしは鈍感バカだしズルい部分も持っている。
だからくどいようだが善良であろうとか誰かのためになにかしようとか思ってるわけではぜんぜんないが、単純に「うしろめたい=気持ち悪い=不快感」なのだ。
だから、自分が不快に感じることはしないように心掛けている。
どこまでも自分のため。
スーパーの店員だった頃、売変ミス*2をお客に指摘されることがとても助かった。
客側としては5円10円めんどくさいから損でも得でも申し出ない、って人が多いだろうけど、店側としてはその後のことを考えると圧倒的に教えてもらうほうがありがたいのだ。
だからわたしはそのへんのもんも、見つけると必ず言うようにしてる。
ほっとくともやもやするからだ。
他人の行動にいちいちとやかく言う気はないが、少なくとも自分自身はいつだっておてんとさまの下を胸張って歩ける自由を手放したくないとは思ってる。
そしてそのためには、たまには善良であることも、人より損をすることも多分必要なのだろう。
その場限りの「得」でなく、「徳」を取りたいもんですな。
って何やらきれいにまとまったところで今日はおひらきでございます、ちゃんちゃかちゃんりん。
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つか、今読み直すと後半の売変のくだりはさておき、要するに「故意か過失か」って話だなコレ。
生活してるとさまざまな問題や疑問に出会う。
それらはどんなにくだらないささいな入口であっても、つきつめて考えるとほんとうに「法律」や「道徳」に行き当たる。
法律ってのは実によく考えられている。「よく出来ている」とは言えないけど、常にすさまじいスピードで変化を繰り返す人間社会にあっては「健闘してる」と言えるんじゃないだろうか。
ってまたそんな話すると長くなるのでそこらへんはいずれの機会に。