記憶のズレはときどき切ない

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記憶力には当たり前だが個人差がある。

もっのすごい覚えてる人もいれば、端から忘れてっちゃう人もいるし、

悲しいつらいことばっかり覚えてる人もいれば、都合のいいことばっかり覚えてる人もいる。

言うまでもなくわたしは最後の奴だ。

文字記憶、数式なんかじゃなくて、実際に日々の中で起こったアレコレの話。

 

どこへ行って何をした、誰と会ってなんの話をした、何を食って何を着ていたとか。

そういうのって頭の良し悪しではなく、ものごとひとつひとつに対する意識だったり関心度だったりに比例していると思う。

 

通常人は非常に多くの他人と接し、多くのものごとに追われて暮らす。

記憶はどんどんアップデートされていき、だいたいは古いモノから順に削除されていく。

わたしなんかは容量には限界があるので、古いモノで大事なモノは忘れないために断片的なタグをつけておく。

それがこういう文字記録だったり写真だったりする。

 

そんなことしなくても記憶がすっかり脳内箪笥におさまっている驚異的な人もたまにいる。

何年も前にこちらが言った些細な言葉を正確に記憶されていたりすると、驚きよりも怖さが先に立つ。

自分の中では情報として残されていないから怖い、という意味だ。

 

もちろん逆もしかりだ。

自分では意識して相手の話を聞き、タグをつけて記憶にとどめて返答をするが、しばらくのちにまた同じ情報を与えられたりすると 「この人はわたしの話を聞いていないんだな」→「わたしに興味がないんだな」 と思う。

 

逆の立場であれば念押し確認のためにそれをするかもしれないのに、人間の感性ってのは微妙で勝手なものだ。

 

過去のわたしは人好きだったが他人に興味はなかった。

だから誰とどこへ行って何をした、とかの記憶はかなりいい加減だし、何を話したかなんてそれこそ都合よく自分の脳内で上書きされている。

だが、現在のわたしは基本人嫌いで、特定の他人に対する興味は高い。

そのため誰とどんな種類の話をしたか、という記憶は可能な限りとどめておきたいと努力をしている。

基本記憶能力に乏しいため、文字や写真等の記録に頼ることになり、つまりそれが努力の具体的な中身だ。

 

わたしは極端に我が強いのか、より多くの人と会いたいとは思わないし、大勢のなかのプラス1という存在であることを望まない。

ライブの1万人の観客のなかのひとり、であるよりは、観客4人のクリスマスパーティーの主催者でありたい、という種類の人間だ。

 

会いたいと思う人には会いたいし、「わたしに」会いたいと言ってくれる人のところへはどこでも駆けつけたい。

会った記憶を自分だけが持っていて、のちに「あれ、会ったっけ?ていうか居た?」なんて言われるのは真っ平ごめんだ。

 

記憶力には個人差がある。

わかってはいるが、同じ記憶を共に追尾できることを楽しいと感じると同時に、同じ記憶を所持しているはずの人とそれを分かち合えないのはなんとも切ない気分なのさ。

 

記憶能力を高めるためには結局、日々一瞬一瞬を肩の力抜かずに全力で一所懸命に過ごす、こと以外にはないんだろうな。

 

簡単そうで難しい、人生のナントカです(←一番大事なとこだろ)。

 

 

  記憶容量の少なさを感じさせるエピソード抜粋。

全部載せたら鬼スクロールさせるくらいいっぱいあった。

どんだけバカなの私。

 

 

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